アッパ。
先日、アッパが亡くなりました。
日本でいう通夜と告別式等を行い(韓国は3日葬)田舎のお墓に埋葬し、チェサを終えました。
15年以上、病気と付き合いながらの生活で、去年の春に倒れて回復はしたもののずっと療養病院に入院していました。皆、覚悟はしていましたが、やっぱりショックだしアッパの存在は大きかったんだと感じました。
毎週末、入院先の病院にオッパと顔を見に行ってました。2,3週間前の週末、病室でアッパと私2人きりになったことがありました。
アッパ 日本に帰りたくないんか?
私 故郷だからもちろん帰りたいですよ〜はは。
アッパ じゃあ、ダンナと子ども連れて帰ったらどうや?
私 そうしたらアッパとオンマに会えなくなるから、できませんよ。はは。
アッパ ふははは〜そうか〜
で、今は幸せか?夫と娘とちゃんと暮らしてるか?
私 はい、幸せです。
アッパ そうか、幸せだったらそれで良い。
という会話をしました。
韓国に嫁に来て、なかなかアッパとはちゃんと会話できませんでした。アッパの方言混じりの韓国語がちゃんと聞き取れないし、私のたどたどしい韓国語の発音では耳が遠くなったアッパには伝わらないことが多かったし、普段はオンマかオッパがいて一緒に話すことが多かったし、私自身、父親という存在にぎこちない部分があり、どう接すれば良いのか分からなくて、なんとなくアッパに対して緊張感がありました。だから、この日、アッパとちょっとだけでも〝2人で会話〟できたことが嬉しかったのと、『幸せか?』と聞いたアッパを見てだいぶ弱ってきはったように感じました。もしかしたら長くないのかも知れないと。
オッパが日本人と結婚すると言った時、拒否感があったみたいなのに、私にはそんな素振りを一切見せず受け入れてくれたアッパ。
頻繁に日本に帰る私に何も言わずお小遣いをくれ、帰ってきたら『オンマのおっぱいたらふく飲んで来たか?』と冗談を言って迎えてくれたアッパ。
出産で日本に帰る時も『実家のお母さんの側が良い。잘 갔다와~』 と送り出してくれ、孫を連れて帰ったら想像以上に可愛がってくれ、私に会う度に『赤ん坊、育てるのしんどいやろ?ご苦労さん。』と声をかけてくれたアッパ。
去年の春に昏睡状態から目覚めてから、初めて〝보리야~〟と私の名前を呼んでくれました。それまでは〝우리 며누리~〟でした。
韓国に来て3年。他の家族ほどの思い出は無いけれど、色々良くしてもらったことばかりを思い出します。自分の父親と会わなくなってから嫌なことしか思い出さないのに、アッパは良いことしか思い出しません。それくらい良くしてくれたんだと思います。
末っ子の息子(オッパ)が結婚し、子どもができて久しぶりの孫を見せることができて良かったと思う反面、娘が〝ハラボジ〟と呼べるくらいまで頑張って欲しかったという思いもありました。
お葬式の後、家族会議が開かれ、ひとまずは兄妹が和解し、これからオンマを協力して支えていこうということになりました。
『実家を出たらチュソクもソルラルも集まりには参加しない‼︎ 墓参りは俺ら3人で行くから!』 と上の兄2人と決別する気でいたオッパでしたが、ソルラル直前にアッパが亡くなったので、そうも言ってられなくなりました。ㅎㅎㅎ これから毎年ソルラル前にアッパのチェサ。バラバラになりつつあった家族をアッパが修復しようとしたのかも知れません。
家族会議の後、みんな笑顔が一気に増えたような気がします。
アッパが残したものは大きかったようです。
日本でいう通夜と告別式等を行い(韓国は3日葬)田舎のお墓に埋葬し、チェサを終えました。
15年以上、病気と付き合いながらの生活で、去年の春に倒れて回復はしたもののずっと療養病院に入院していました。皆、覚悟はしていましたが、やっぱりショックだしアッパの存在は大きかったんだと感じました。
毎週末、入院先の病院にオッパと顔を見に行ってました。2,3週間前の週末、病室でアッパと私2人きりになったことがありました。
アッパ 日本に帰りたくないんか?
私 故郷だからもちろん帰りたいですよ〜はは。
アッパ じゃあ、ダンナと子ども連れて帰ったらどうや?
私 そうしたらアッパとオンマに会えなくなるから、できませんよ。はは。
アッパ ふははは〜そうか〜
で、今は幸せか?夫と娘とちゃんと暮らしてるか?
私 はい、幸せです。
アッパ そうか、幸せだったらそれで良い。
という会話をしました。
韓国に嫁に来て、なかなかアッパとはちゃんと会話できませんでした。アッパの方言混じりの韓国語がちゃんと聞き取れないし、私のたどたどしい韓国語の発音では耳が遠くなったアッパには伝わらないことが多かったし、普段はオンマかオッパがいて一緒に話すことが多かったし、私自身、父親という存在にぎこちない部分があり、どう接すれば良いのか分からなくて、なんとなくアッパに対して緊張感がありました。だから、この日、アッパとちょっとだけでも〝2人で会話〟できたことが嬉しかったのと、『幸せか?』と聞いたアッパを見てだいぶ弱ってきはったように感じました。もしかしたら長くないのかも知れないと。
オッパが日本人と結婚すると言った時、拒否感があったみたいなのに、私にはそんな素振りを一切見せず受け入れてくれたアッパ。
頻繁に日本に帰る私に何も言わずお小遣いをくれ、帰ってきたら『オンマのおっぱいたらふく飲んで来たか?』と冗談を言って迎えてくれたアッパ。
出産で日本に帰る時も『実家のお母さんの側が良い。잘 갔다와~』 と送り出してくれ、孫を連れて帰ったら想像以上に可愛がってくれ、私に会う度に『赤ん坊、育てるのしんどいやろ?ご苦労さん。』と声をかけてくれたアッパ。
去年の春に昏睡状態から目覚めてから、初めて〝보리야~〟と私の名前を呼んでくれました。それまでは〝우리 며누리~〟でした。
韓国に来て3年。他の家族ほどの思い出は無いけれど、色々良くしてもらったことばかりを思い出します。自分の父親と会わなくなってから嫌なことしか思い出さないのに、アッパは良いことしか思い出しません。それくらい良くしてくれたんだと思います。
末っ子の息子(オッパ)が結婚し、子どもができて久しぶりの孫を見せることができて良かったと思う反面、娘が〝ハラボジ〟と呼べるくらいまで頑張って欲しかったという思いもありました。
お葬式の後、家族会議が開かれ、ひとまずは兄妹が和解し、これからオンマを協力して支えていこうということになりました。
『実家を出たらチュソクもソルラルも集まりには参加しない‼︎ 墓参りは俺ら3人で行くから!』 と上の兄2人と決別する気でいたオッパでしたが、ソルラル直前にアッパが亡くなったので、そうも言ってられなくなりました。ㅎㅎㅎ これから毎年ソルラル前にアッパのチェサ。バラバラになりつつあった家族をアッパが修復しようとしたのかも知れません。
家族会議の後、みんな笑顔が一気に増えたような気がします。
アッパが残したものは大きかったようです。
by leebori
| 2016-02-07 20:53
| 韓国全州暮らし
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